

COMPANY / STORY

全てが順風満帆ではないけど、数々の失敗や成功を繰り返して「現在」があります。
人それぞれに歴史があるように、会社にも多くの歴史があります。 生田プリーツも決して全てが順風満帆ではなく、多くの失敗や挫折を経て今の会社があります。 そしてその時々に必ず人が関わり支え合い、従業員それぞれが喜びや葛藤を繰り返し、時にみなと共有して切磋琢磨しあっているのが「生田プリーツ」の良さだと思います。
創業者 生田 完治
過去を見つめ、臆さず新しいことに挑戦する
STORY
1976(昭和51年)
1989(昭和64年)
1997(平成9年)
2000(平成12年)
2015(平成27年)
2020(令和2年)
創業者 生田 完治(現会長)
株式会社生田プリーツ創立
事業縮小と再起
生田 貴之 入社
学びとブランド設立
若手の採用開始と 挫折
現在から未来

洋服作りに興味を持ったきっかけは「マンボーズボン」
洋服作りに興味を持ったきっかけは「マンボーズボン」
私が洋服に興味を持ったのは、元より親戚がみんな縫製業をやっていたのと、中学 3 年生の時にマンボーズボンが流行っていて 1 着 200 円で友人たちのものを直していたのがきっかけです。
社会に出てからは紳士服を初めに、オンワード樫山でプリーツの研究に携わりました。
並行で縫製に携わり続けていましたが、縫製業ですでに多くの人たちが素敵な技術を持っている場面を目の当たりにしていたことから、自分はプリーツで勝負しようと心に決めました。
その想いから夫婦 2 人でこの吉川に拠点を構え、ハンドプリーツの仕事から生田プリーツを始めました。
株式会社生田プリーツ創立

事業拡大と縮小を経験。でも技術は残り続けた
個人で独立してからは加工依頼の調子もよく、徐々に拡張していって縫製まで納品する製品加工へと事業を広げていきました。
現在の吉川に移ったのは法人化した47年前ですが、当時は周りに田んぼしかありませんでした。
法人化してからは縫製にもより力を入れて人を雇用し始め、最大で80人まで増やし、更には別の工場まで拠点を広げて本格的に縫製業を営み始めました。
事業拡大で売り上げが一気に上がった時期もありましたが長くは続かず、バブル前の約40年前に事業の縮小をせざるを得ない状況にまで追い込まれました。
法人としての運営は難しい状況となりつつも、一人で稼ぐことに立ち返ったことによって、もとより自信のある技術力で再び盛り返し、30年前の時点で当時一緒に働いていた人たちが少しずつ戻れるほどの規模感に(約6人程度の従業員と縫製の外注を使用した形)まで押し上げることができたのです。
事業縮小と再起

入社を意識したきっかけは「親が楽しそうに仕事する姿を見たこと」
1990年代の終わり、低単価衣類が少しずつ台頭し始めてきた頃、私は大学で社会学を専攻していました。当時は会社を継ぐつもりはなく、どこかの会社に就職するだろうと考えていました。
しかし大学3年生の時に偶然、実家の仕事を手伝う機会がありました。その経験を通じて、アパレル業界の仕事に少しずつ楽しさを感じるようになりました。
その際、親が楽しそうに仕事する姿を間近で見ていて、生田プリーツに入社することを意識し始めました。
何より、元々ものづくり自体が好きだったこともあり、最初はアルバイトとして働くところから本格的に仕事に携わるようになり、就職を希望する気持ちが強くなりました。
就職の意向を親に打診した際、ちょうどその頃、会社は厳しい経営状況にありました。売り上げが苦しい背景からプリーツ加工機の中で一番大きな機械の売却が検討されていたそうです。しかし、私が入社を希望したことで、機械の売却は見送られました。その機械は今でも現役で稼働しています。
こうした経緯を経て、私は正式に社員として生田プリーツに入社しましたが、もしあのタイミングで入社を判断していなければ、おそらく会社に戻ることはなかったかもしれません。
生田 貴之 入社

学びの時間とチャレンジを経て、多くの経験と財産を得る
私が就職した当時、社内の平均年齢は非常に高く、最も若い社員でも40代という状況でした。(年齢層は高いが当時で言えば技術力はベストな状態)
入社当初、私は服づくりに関する知識がほとんどなかったので、働きながら夜間の服飾学校に通い、3年間パターンの勉強を中心に知識を蓄えていきました。学校では同じ志を持つ友人とも出会いました。その中で、デザイナー志望の友人、パタンナーを目指す友人、そして工場を持つ私の3人でブランドを立ち上げることになりました。
継続できたのは3年間でしたが、卸先は10軒で取り扱いされるなど、「売る」という大きな経験を積むことができました。また、ブランドを運営する中で、生地や資材の仕入れルートを開拓できたことも大きな変化でした。これにより、工場自体も仕事の幅も広がり、ブランドを運営したことが大いに役立ちました。
その後、デザイナーの友人とは別の道を歩むことになりましたが、パタンナーの友人は現在も生田プリーツの社員として共に働いてくれています。夜間学校での3年間、そしてブランド運営の3年間で得た経験と出会いは、今でも私の大切な財産となっています。
学びとブランド設立

育てる意識が軽薄だった。そして気付かされた
私が30歳くらいの時に、若い人が集まる会社にしていきたいと、初めて新卒の採用に挑戦しました。当時、専門学校の講師をしていた知り合いの紹介で、在校生を採用することになりました。最初は二人採用し、一人はパタンナー、もう一人は縫製スタッフとして迎え入れました。
パタンナー志望の方は残念ながら1年で辞めてしまいましたが、縫製スタッフとして採用したもう一人は10年間働いてくれました。その彼が7年目を迎える頃には、次の世代を入れられるような状況になってきて、少しずつ採用頻度を上げていきました。
継続的な採用により、社員数は25名に増え、そのうち20代が6名となり、全体の20〜25%を占めるまでになりました。
しかし、若い世代が増えた一方で、チームとしてのまとまりが欠け、うまくいかないことも多くありました。
その原因の一つは、私自身の「育てる認識が軽薄だった」ことが大きくありました。当時の私は人材というものは勝手に育っていく(勝手に努力していく)ものだと思い込んでいたのです。「自主性を尊重する」と言っておきながら、実態としては「ただの放任」であった。それは優しいようで冷たい。結果的に20%を超えていた20代の社員も、気が付けば一人しか残ってもらえませんでした。
この出来事をきっかけに、社長として間違った関わり方をしてしまったことに気付くことになったのです。
若手の採用開始と挫折

「この会社に入って良かった」と言ってもらえるような会社にするには、まずは自分自身が変わらないといけない
唯一残ってくれた女性は北海道から入社してくれました。彼女が辞めずにいてくれたのには、明確な目的があったからです。その目的とは、技術力を身につけて技能検定で一級を取ること。そしていつか地元に戻って人を教える仕事に就くことでした。当時話してくれていた「いつか地元の北海道で技術指導をしたい。そのために入社したい」と言ってくれていたことが当時とても印象的でした。
多くの社員が辞めていった中で、彼女のように高い志を持つ人が「この会社に入って良かった」と感じてくれるような会社にしたいと、初めて心の底から考えるようになりました。そうなっていくためには、まずは自分自身が変わらないといけないと感じたのです。
会社と自分自身を見つめ直す

過去を見つめ、臆さず新しいことに挑戦する
「この会社に入って良かった」と思える会社になるために、まず手をつけたのは、会社に無かった「理念」を言語化することでした。一見当たり前のようにも思えますが、今まで重要視してこなかったのです。
そこから経営計画を立てる。いわゆる一般的な会社が行うような施策を工場という形態でも実施すべきだと考え、会社として共通認識や目的を持って動くための仕組み作りを進めていきました。
考えを深めていく中で、それを実現するためにはやはり「人」が必要になる。そこで雇用の見直しを図り募集をかけてきたのが「5年前」です。
以前のように学校からの紹介で入社するケースは減りましたが、SNSでの発信を積極的に始めたことで、学生がSNSを通じて応募するケースが増えていきました。現在ではアルバイトや専門学校からのインターンも毎年一定数の募集が入るようになっています。
過去を見つめ、臆さずに新しいことへ挑戦する。 私が前を向いて話せるのも、同じ方向を向いて働いてくれている従業員がいるからこそなのです
現在から未来へ
COMPANY PROFILE
住所
本社
〒342-0042 埼玉県吉川市 137
パターン事業部
〒153-0063 東京都目黒区 2-1-18-903
会社名
株式会社生田プリーツ
代表者
生田 貴之
設立
1976年10月1日
資本金
5,000,000円
インボイス登録No,
T3030002089811
事業内容
婦人服縫製 / プリーツ加工 / パターン作成 / 自社ブランド製品開発・販売
MACHINE LIST
CAD
東レACS クレアコンポ 2
2台
CAM
川上製作所 1600mm
1台
延反台
4.3m
1台
接着機
HASHIMA 45cm
1台
1本針
20台
オーバーロック
4台
エッジコントロール
2台
サージング
1台
メロー
1台
すくい
2台
インターロック
3台
ハトメホール
1台
カンヌキ
1台
ネムリホール
1台
蒸気アイロン
9台
電気アイロン
1台
コンベア式検針機
HASHIMA
1台
ACCESS
本社:〒342-0042 埼玉県吉川市中野 137
JR武蔵野線 吉川駅より徒歩20分 / 吉川駅北口よりバスで「なまずの里公園」下車 徒歩5分